「ノルウェイの森」とボリウッド長編映画
17 Apr 2011 Leave a Comment
最近東京から近所に越してきた友達夫婦が誕生日プレゼントに村上春樹の「雑文集」と「ノルウェイの森 映画版」を含む各種おすすめビデオをくれた。私はかなりコアな村上春樹ファンの一人である。中日ドラゴンズ風にいうと、いわゆる「ハルキチ」である(中部地方では熱狂ドラゴンズファンを人はドラキチ=ドラゴンズキ○ガイと呼ぶ。)数冊の翻訳本以外はエッセイから短編、評論から対談にいたるまでほぼ全作品を逃さず読んでいると思う。
「雑文集」の冒頭の文章に、あるカルト教団に入っていた読者が、隔離された場所で読書を制限されたにもかかわらず「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を持ち込んでこっそり読んでいた結果、最後に教団の呪縛を抜けることができた、というエピソードがある。これは身にしみてよく分かる。私もカルトとは違うけれど、昔、凝縮されて偏った小集団の精神的暴力に巻き込まれてちょっと人間がだめになりかけたときがあったのだが、そのときに何年かぶりに読み返した村上春樹の小説に強くエンパワーされた経験がある。いつから読むのをやめてしまっていたんだろう、とそのときに思ったことをよく覚えている。人間性と柔軟性を引き出す不思議な力がある。いざというときに本物の実益があるのが、村上作品の特別なところである。
というわけで、「ノルウェイの森」は私の村上ベスト10には入っていないのだが、まあ初の映画化はちょっと気になるところであった。CGとか特殊効果とかを使わなくてもいける数少ない作品だから比較的簡単だろうし、まあ試しにやってみたらいいじゃないか、と完全に上から目線である。私の友達は「春樹は大ファンではないけど一応主要な作品はフォローしてる」という人が多く、日本で公開されたときには「まあオッケー」から「受け入れがたい」まで賛否両論の感想が送られてきた。
よく「小説を映画化すると、映画のイメージが小説の世界観をぶちこわしにする」と言う人がいるけれど、それはそもそも原作の小説自体がたいしたことないからだ。たかが映画一本配役一つで本来のイメージが壊れるような小説はほうっておけばいい。逆に、小説が優れている場合には、映画は単なるファンによる再生産の一つにすぎないんだから、温かい目で見て早く忘れたらいい。その理屈でいったら村上春樹の映画化がうまくいくはずないのは最初からわかっている。ミヒャエル・エンデの映画化がことごとく絶望的なのと同じである。
率直な感想としては、ファン丸出しで言わせてもらえば、映画版のノルウェイの森は「まあ決定的に間違っているとまではいわないけれど、これじゃない」という感じであった。私だったら突撃隊とレイコさんと永沢さんの描写に30分は使う。直子役は正直誰でもいいから、むしろ緑に菊池稟子ちゃんを使う。せめて突撃隊のラジオ体操と国旗掲揚のシーンは入れる(なぜ入っていないのか不思議だ)。もっとモノローグを入れて、渡辺君にはもっとはっきりしゃべらせる(ときどきなに言っているのか聞き取れないぐらいもごもごしゃべっている場面がある)。などいろいろテレビの前の監督気取りでいろいろ言いたいことはあるけれど、まあいい。とりあえず映画で初めて見て気に入った人たちにとにかくこれを機に本を買ってほしいと思う。
小説の映画化の根本的な問題は、時間である。大切な細部を削らざるを得ないとき、何を削るかというところに監督や脚本化の好みが出るのであって、その個人的な好みがそれぞれの個人的な好みを持つ大半の読者に納得できないのだ。小説を読むのと同じぐらいの長さの映画を作ることが可能なら、ひょっとしたらいろんな映画化はもっとうまくいくのかもしれないが、そんなことができるのはまあ忠臣蔵かボリウッドぐらいである。
天才はまわりにいない ―「ソーシャル・ネットワーク(The Social Network)」
21 Nov 2010 Leave a Comment
土曜日に「ソーシャル・ネットワーク」を観て来た。世界最年少のビリオネア、マーク・ザッカーバーグがFacebookを発明してから、それを大きくしていくまでの初期のころの実話を基にした物語である。ハーバード大学在学中に、プログラマのザッカーバーグがどのようにしてFacebookを発想したかが興味深いエピソードで説明されている。
とにかく面白いのは劇中の会話である。社会性の偏ったザッカーバーグが、とにかく単調なトーンで理屈(ときには屁理屈)をベラベラベラベラ~っとものすごいスピードで喋る。オトナの理屈や社会の理屈とは違う価値観でボソッと奇妙な発言をして人々を黙らせる。その変人ぶりと、それでいてクールなことや面白いアイディアに対するアンテナの鋭さという天才ぶりが、その会話で表現されていてかっこいい。
でもこの映画のほんとにスゴイところは、実在の超成功者ザッカーバーグを「いい人間」に仕立てていないところである。実在の人物を扱った映画では100発100中、主人公をとんでもなくすばらしい人類の鏡みたいにしてしまうきらいがあるが、この「ソーシャル・ネットワーク」では、かなり意識的にその間違いを回避して、ザッカーバーグを変人として、人のアイディアを盗んだ泥棒として、友達や信奉者を裏切った人でなしとして描き、それでいて余りある天才発明家/プログラマー/企業家としての魅力を伝えている。ああリアルなんだ、と思わせる。その感触そのものが、Facebookのユーザー・エクスペリエンスと同じ感触に仕上がっているのだ。すごい。
けっこう映画の話とは関係ないどうでもいいことだけど、映画を観ていてふと、「ああ、そういえば私はこの人生でまだ一度も天才とは直接出会ったことがない」と考え込んでしまった。ハーバードに行けば、多分未来の大発明家や企業家、天才研究者と交流する機会があるのかもしれないが、そんな世界とはまったく縁がない。これまでにも頭のいい人には何人か出会ったけれど、天才はいなかった。高校も、大学も、大学院も、これまでに働いたいろいろな職場にも天才はいなかった。要するに、自分が天才といわないまでも、かなりのレベルで賢くなければ、天才と人生が交わる機会もそんなに多くないということなんだろう。
今の職場にも天才はいない。ほとんどの会社には、多分牽引力のある天才なんていないのだ。奇抜な発想も、コロンブスの卵も、それを実現する技術も、テクノロジーも、それらの欠如を補うだけの人材の数も、モチベーションの高さも…、とにかくなにもかもがない。それが平凡な会社の実情である。それが大半の会社の実情なのだ。
私も平凡なIQを持った、平凡な才能と発想しかない、資本も人間としての惹きもないごく普通の社員に過ぎない。ないないづくしのなかで普通の人たちが集まって、ない頭を抱えてああだこうだ悩んで、進んだり戻ったり右往左往してなんとか日々の仕事をこなしてぎりぎりの売り上げを出していく。自分がそういう世界にいるのだということと、一生そういう世界で自転車操業で働き続けるのだということを冷静に見た気がした映画であった。
シネマと書店とレストラン
28 Jul 2010 Leave a Comment
日曜日に映画「インセプション」を観た。前の週から封切りになっていて、観た人が一様に「2回観たいぐらい面白かった」と言うのであわてて観に行ったら、すっごく面白かったです。2時間ずっとこぶしを握りしめて画面を凝視しながら、なんだこれはっ、なにが起こっとるんじゃー、だれか説明してくれい!とつぶやきながら観ていた。企業の大物(渡辺謙)が他人の夢を見ることのできる技術を使って、ライバル企業の未来を変えるようディカプリオに依頼する。ディカプリオはチームを組んで人の多重の夢に入り込み、インセプション、つまり人の潜在意識にアイディアの種を埋め込むプロジェクトを実行するが、彼自身の心のトラウマが夢に影響をおよぼし、その成功を阻もうとする・・・、という複雑怪奇なミステリー。後でDVDで観よ、と思っている人には映画館に行くことをお勧めします。
そういえば、「ソルト」もその週末に観た。アンジェリーナ・ジョリーのスパイ・アクション映画で、最後の最後まで、アンジェリーナ演じるソルトというCIA捜査官がいったい何者なのか、いいヤツなのか悪いやつなのか、誰のために戦っているのかが謎解けない。CIA捜査官とみせかけてロシアのスパイ、と見せかけて実は・・・、というなかなか複雑な構成のストーリー。いつもアンジェリーナ・ジョリーの映画を見ると、「アンジェリーナという女は、私とはまったくオポジット・アイディアだな」と思う。人をけり倒す時の足の上がり具合といい、腕の硬そうな筋肉といい、俊敏さといい、同じ人間とは思えない。映画の帰りに道を一人で歩きながら、その日の朝ヨガをしようとしてぐぐっと体を曲げたら腰が痛くなって5分でやめたことを切なく思い出した。生まれ変わったらアンジェリーナになってみたい。でもトレーニングとか面倒くさそうだから、この人生ではアンジェリーナにならなくていい。
ところで、レオナルド・ディカプリオといえば、最近読んでいるKhaled HosseiniのA Thousand Splendid Sunsの中に、2000年にアフガニスタンのカブールで映画「タイタニック」が闇で爆発的にヒットした、というエピソードが出てくる。小説はカブールで生きる二人の女性の人生と愛を描いた物語なのだが、この2000年にカブールで起きたタイタニック・インシデントが生き生きと書かれていて面白い。すでにタリバン政権に変わっていて、本もテレビも音楽もなにもかもが規制された時代に、市民は闇で海賊版を買って、保安に見つからないように注意しながら庭にこっそり埋めてあったテレビを掘り出して、カーテンを閉め切って映画を観たんだそうだ。町ではありとあらゆるタイタニックグッズを売り出し始めて、タイタニックカーペットから、タイタニック・ブルガ(ムスリムの女性が顔を隠すためにかぶる布)まで売っていたらしい。しかし、タイタニック・ブルガだけは、いったいどういうものなのか想像がつかない。
私はいつも同時進行で2、3冊の本を読んでいる。真剣に呼んでいるメインの本と、あとは軽く読める本を数冊手元においておいて、気分に合わせて平行して読む。メインの本はたいてい内容が濃くて重いので、その緊張を違う本で和らげるのである。今は悲惨なアフガニスタン小説を読む傍らで、同僚から借りた東野圭吾のミステリーと、辻仁成の恋愛小説をぱらぱらめくっている。ムンバイでは日本の本は手に入らないので、だいたい日本から誰かが持ってきたものをぐるぐる回し読みするのである。
東野圭吾はインドに来てから何冊か読んだ。私は基本的にはミステリー小説が苦手である。ミステリー小説は文章がへたくそな確率が高いので、気になってあんまり中身に集中できないのだ。多分、ミステリー小説の世界ではことばよりもアイディアがより重視されるためだろう、と推察する。読者も犯人が気になって、「なんで作家のくせにてにをはが間違ってんだよ」とか「こんなとこに句読点つけたら読みにくいだろうが」とか思っている余裕がないにちがいない。それに傾向的に文章が記号的なので、(「とも子はその事実に気付いた時、窓の外の闇を見つめたまま、いつまでも身動きが取れなかった」みたいなどっかで読んだことある文章が1ページに1回出てきたりする)、なんか説明書を読んでいるような気分になりがちである。でもその中ではまあ、東野圭吾の本は比較的「何だ、このヘンな日本語っ」と感じずに違和感なく読めるし、変化球が多いのでミステリーファンでなくても楽しめる。
辻仁成の短編集は今回初めて読んだけれど、余計な情報をあたまに入れただけ脳細胞が損したぜ、というほど面白くない。主人公が「俺はお前だけを愛していたのにっ」とか言うところで反射的に「さぶっ」とか「きもっ」とつぶやいて本をばしっと閉じてしまう。他の本はおもしろいのかもしれない。個人的な趣味というか性格の問題かもしれない。ファンに言わせれば、私の心が乾きすぎていてそう感じるのかもしれない・・・と思い直してまた本を開く、ということを何度か繰り返している。いやなら読まなきゃいいのに、とは思うのだが、娯楽の少ない暮らしのなかで日本語の本は貴重なので、それでも、1ページ1ページを大事に読んでいる。
とりとめのない話だ。
沢木耕太郎さんは「シネマと書店とスタジアム」のなかで、映画と本とスポーツさえあれば生きていける、と書いている。私はたぶん、「シネマと書店とレストラン」と言うだろう。どんなに人生が絶望に満ちていても、退屈だろうと、孤独であろうと、雨降りの日曜日に一人ぼっちで、人生に何の目的も意味も見いだせなくても、「そういえばまだ観てない映画があったな」と思う。ふらっと本屋に立ち寄ったら、まだ読んでない無限数の本を前にして、「一つの人生では足りない」、と考える。映画館の帰りに新しい本を買って、好きなカフェで料理をつつきながら日曜日の夕方を過ごしていると、すばらしい映画や本や、おいしい食べ物で埋めようとしている自分の中の空白こそが、多分自分の持っている最良のものに違いないという気がしてくる。
インディペンデンス・デイの壮大な皮肉
14 Mar 2010 2 Comments
今横のテレビで「インディペンデンス・デイ」がかかっている。最近エイリアン・パニック映画ってぱったりなくなってしまったせいか、なんだかノスタルジックな気持ちで見ている。私は主人公の科学者役を演じているジェフ・ゴールドブラムの容姿がかなり好みである。スタイルが抜群によろしい。「ジュラシック・パーク」でもカオス理論の研究者役で、軽快(あるいは軽薄)なフットワークのかっこええ役をやっていた。彼が「ザ・フライ」の主人公の科学者だったことは最近まで気付きませんでした。なんでまたそういう「変人科学者」役ばっかりやっているのか謎だ。
「ザ・フライ」は私の名作映画リストの中のひとつである。突拍子もない話だし、映像もかなりディスガスティングだけれど、強烈に印象に残る。以前にこの「ザ・フライ」の元になった白黒映画、「蠅男の恐怖」を見たことがあるけれど、こっちはもっと突拍子もない話で、空間移動装置の中に蠅と人間が入って融合した結果、「蠅人間」だけでなくて「人間蠅」も同時にできてしまう。蠅人間は首から上が蠅の人間。一方で、人間蠅はぶんぶん飛んでいるちいさい蠅で、よく見ると首から上だけが人間なのだ。「助けてー助けてー」と小さい声で叫ぶのだが、ぶちっと人につぶされて終わりである。ちなみに蠅人間になっちゃった博士は金属プレッサーに蠅の頭を挟んでつぶして自殺してしまう。
「インディペンデンス・デイ」を観たのは1996年で、私は高校1年生であった。あの映画で一番印象に残っているシーンはやはり、ビル・プルマン演じるアメリカ大統領がぶつ地球人類独立宣言である。タコ型宇宙人に占領されかかっている地球。エイリアン艦隊に向かっていくアメリカ軍航空兵たちを前に、奇しくも7月4日の突撃の朝にビル・プルマンが壇上に立ち、「今日はアメリカだけではない、人類にとっての独立記念日になるのだっ」と叫び、「おー!」と怒号があがる一番見せ場のシーンである。
あの頃はまだ9.11もアフガニスタン紛争もまだ起こっていなかったけれど、アメリカがまだ元気いっぱい世界の代表国になるべく邁進していて、すでに利権のためによその国の政治に干渉しては批判を受け始めていた時代だったと記憶している。そんな時に、アメリカの独立記念日を勝手に世界の独立記念日にしちゃったり、アメリカ軍が犠牲になって宇宙人から世界を守っちゃう映画なんか作っているのだ。これが政治的プロパガンダとして作られたんなら時代が10年は遅すぎるし、単にアメリカ人観客が「ワオ、アメリカサイコー」と感じたいために作ったんだとしたら頭が悪すぎるし、どっちにしろ信じられないなあ、とアメリカへの不信感がいっぱいになった16歳の夏であった。結局、あの時代に日本では当然共有されていた雰囲気も、アメリカ人としてアメリカに住んでいる人たちには伝わっていなかったということなのかもしれない。
しかし、いま改めて「インディペンデンス・デイ」を観ていると、別の感慨が起こってくる。ひっかかるのは、彼らが戦っている得体の知れない宇宙人たちの存在である。正体のわからない、言葉や理屈の通じない、だからどう戦っていいのかわからない謎の知的生命体。人類や地球を壊滅する恐怖の象徴。それが体長3メートルほどの、頭が膨れ上がったタコちゃん星人なのだ。正義のためにとはいえ、そんなぶにぶにのタコと真剣に戦ってどうするのだ。そんな映画をつくってみんなで見て喜んでどうするのだ。それが何億も資金をかけて作った、その先の10年を予期してぶった壮大な皮肉だったのだとしたら、なかなか悪くない映画なのかもしれない。
SRKとボリウッド・エンターテインメント
22 Oct 2009 4 Comments
in 日本語の記事, 映画 Tags: Aamir Khan, アミール・カーン, シャールク・カーン, ヒンディ映画, ボリウッド, Shah Rukh Khan
ディワリといえばSRKである。ムンバイにしばらく住んでいる人には説明の必要はあるまい。SRK=Shah Rukh Khan、ボリウッドスターのシャールク・カーンである。インド人は、何でもかんでも言葉を省略するのが大好きだ。新聞を見ると、地名や政党名、法律や条約の名前なんかはたいていイニシャルトークなので、なにがなんだかさっぱりわからなくて実に困る。私にわかるのは、SRKとCST(Chatrapathi Sivaji Terminus)ぐらいのものである。ディワリの晴れ晴れした雰囲気の中にいると、幸せなSRKの映画がじっくり見たくなる。
前にも書いたが、私はシャールク・カーンがかなり好きだ。ほかにも若くてかっこいい俳優や渋い俳優はいっぱいいる。不思議なことに、ハンサムな俳優、セクシー俳優、渋い俳優、ダンスの上手い俳優、など分野別にランキングした場合、シャールク・カーンはどの分野でも一位ではない(皆さんがそんな私的ランキングに興味があるかどうかはわかりませんが)。彼にはそういう部分的なインパクトがない。しかし圧倒的な存在感とオーラがある。
テレビや雑誌にシャールクが出てくると、なんだか幸せな気持ちになってしまう。わくわくする気持ちと、ほっとする気持ちが同時に沸き起こる。これって劇場に座って楽しい正月映画を見る前の気持ちにそっくりである。つまりは、シャールク・カーンそのものがインドのエンターテインメントを体現しているからではないかと私は思う。その信頼感が、他の俳優と一線を隔すところである。
若い人気俳優たちと比較すると、コミカルだけれど下品になりえないところがアクシェ・クマールと違う。セクシー役を演じても引きがなく、観客を恥ずかしくさせないところがシャヒド・カプールと違う。クールな演技をしてもすかした感じに見えないところがハルティク・ローシャンと異なる。そして、愛嬌の点で圧倒的にアミール・カーンに勝っている。そんなふうに、どう考えてもシャールク・カーンのラブリーさには比類がない。(アビシェイク・バッチャンは言うに及ばずです。)わたしとたまこの一時的な結論としては、今のところシャールクに続く大型俳優はボリウッドの若い世代に育っていない。
正月といえばエンターテインメント映画である。残念ながら今年のディワリにはシャールク・カーンの大型映画はやってこなかった。若い俳優のすかしたクラブダンスを見る暇があったら、古いDVDを買ってシャールク・カーンの華々しいボリウッドダンスを見ていたい。やはりここは「NPO法人ボリウッドのエンタメ映画を守る会」を立ち上げたほうがいいかもしれない。SRKにはぜひ顧問を務めていただきましょう。私はムンバイ支部長を担当しますので、たまこは東京支部をおねがいします。
ムンバイ、マイ・スイートハート ―映画、Mumbai Meri Jaan-
13 Apr 2009 Leave a Comment
映画、Mumbai Meri Jaan (ムンバイ・メリ・ジャーン)を観た。去年の8月か9月ごろに公開して、辛口TimeOutが4つ星をつけていた作品だ。よさそうなヒンディ語映画のストーリーを字幕なしで理解するのはかなり困難なので、DVDが出るまで待っていたのである。素晴らしい映画であった。
2006年にムンバイで発生したローカル線の爆破テロにまつわる話だ。電車に乗っていて生き残った人、愛する人に死なれた人、事件のレポートをする記者、事件後に見回りに借り出される警察官たち、ムスリムとヒンドゥ、金のある者と貧困な者。事件後のムンバイ市民の人生をありとあらゆる角度からとらえてまとめ上げている。悲惨なのに、ラストはひたすらやさしい。
インドにいると、人間をステレオタイプで見る傾向が強くなると思う。少なくとも私はこの映画を観て、自分がずいぶん人を分類して見るのに慣れきってしまっていると感じた。金持ち、中流、貧乏。インド人、西洋人、東洋人。ムスリム、ヒンドゥ、クリスチャン。リキシャの運転手と客。警察と市民。テレビの中の人と、外の人。だって外見の違いがとにかくはっきりしているからだ。
もちろん、人を知ってしまえばそういう表面的な違いは瑣末なことに過ぎない。付き合っていれば、個人の人格的な差は文化的な背景の違いとは比べ物にならないほど大きい。友達や同僚の社会的バックグラウンドなんてほとんど知らない。しかしよく知らない、普段あまりかかわりがない人にたいしては、見かけでどういう人間かを判断し、決めている。ベージュの制服を着てひげを生やした警察官に自分と同じような複雑な思いがあるなんていちいち考えたりしない。
それが映画自体のテーマでもある。主人公たちは事件を通じてそれぞれが、それまでの自分とは違った人間の立場に身を置くことになる。被害者だと思っていた人間が人を傷つけるものの立場を経験する。部外者だったものが関係者になる。
この映画のもう一つの魅力は、Vashiに住んでいる人/住んでいた人だけにしかわからないが、われらがCentre One(センターワン)が映画にたくさん登場することである。センターワンとは私の家から歩いて5分のところにある小さなショッピングモールです。周囲にたくさんおしゃれなモールができてしまって倒産の危機に瀕している様子だが、映画にも出たぐらいだしがんばってほしい。どんなにかっこいいブランド・モールができたとしても、センターワンはマイ・スイートハートだ。
だからVashi在住の日本人の皆さんは、サブウェイ・サンドイッチを買うときには必ずInorbitではなくセンターワンを利用していただけるよう、ご協力お願いいたします。
言葉に詰まるとき
11 Dec 2008 2 Comments
Jaya Bachchanは大スターAmitabh Bachchanの妻であり、女優である。インドの芸能雑誌「People」の10月号に彼女のロングインタビューが載っていた。ひとことで言って、「怖いおばさん」という感じの迫力のある女性である。ちなみに、彼女の息子は若手人気俳優、Abhishek Bachchan。その妻もインド一の美人女優Aishwarya Rai。ものすごいスターファミリーのいわば中心を生きている人である。
インタビューの大半は彼女と夫との関係について質問され、インタビュアーを笑い飛ばしたりにらみつけたりしながらばしばしと答えを返す。しかし、半ばで他の女性との関係がたびたび噂される夫Amitabhについて、「ああいう噂は気になるでしょう?」と聞かれると急に寡黙になり、抽象的な表現になる。
「(沈黙)・・・。人間だから、反応はします。暗く反応することもあれば、明るく反応することもある。ふるまいや、様子や、出来事によって毎秒ごとに安心させられて、それでなんとか前に進んでいく。(沈黙)・・・。傷つきやすい年齢や時期にある人はいずれにしたって自分を見失うものです。そして、悲しければ悲しいし、幸せならば幸せなのです。」
かなり正直に答えている印象である。これまで何度、マスコミから同じような質問をされたのだろう。しかし、何十年と繰り返されている質問だとしても、まだ冗談では返せないことが人にはあるのだなあと思った。嫉妬や憎しみをかみしめながら家族の中に留まり続けているからか、Jaya Bachchanの口元は普通の人よりずっときつく締まっているように見える。そういう生き方を「執着」と呼んで嫌う人もいるかもしれないが、私はそういうさわやかでない部分を持っている人に惹かれてしまう。
自分が60代になったとき、彼女のような眼光鋭いこわもておばさんになっていたいとはあんまり思わない。できれば余計な苦労をせずに暮らして、どこまでも力の抜けたおばさんがいい。でもまあ、きっとそうもいかないのだろう。
何に耐えて、何に耐えないのか。
長く暮らせば暮らすほど人に語るエピソードは増えていくが、それと同じだけ語ることのできない話も増していく。そして、語られない話が積もれば、それがふいに言葉を詰まらせる引っかかりになっていくのだろう。自分があの年になったとき、いったい何に言葉を詰まらせているのか、何を越えられずに暮らしているのか、まったく想像がつかない。
死ぬ前に一度は観るべき映画(らしい)「LAGAAN」
24 Nov 2008 Leave a Comment
映画、「LAGAAN -Once upon a time in India」をとうとう観た。Aamir Khan(アミール・カーン)主演・プロデュースのインド映画である。2002年のアカデミー外国語映画賞にノミネートされた作品なので、ひょっとして日本で観た方もいらっしゃるのではないかと思う。素晴らしい映画でした。
イギリス統治下のインドの内陸部の小さな農村。日照りのせいで穀物がとれず、厳しいLagaan(年貢)が納められないと訴える農民たちに、イギリス人指揮官は意外なゲームを仕掛ける。「もしクリケットでイギリス人チームを打ち負かすことができたら、3年間Lagaanを免除してやろう。」
農民たちは果たしてその挑戦を受けるのか?クリケットのルールも知らない農民たちが、イギリスチームを相手に勝利を望めるのか?・・・そんなストーリーの人間・歴史・スポーツドラマである。
主役は若き農民Bhuvanを演じるアミール・カーン。心優しく、真実と正義を追い求める、決して恐れない青年。Bhuvanの情熱と真実に心を打たれて、農民の心がひとつにまとまっていく様子が感動的で、キー場面に当たるたびに、「バ、バワン!」と鑑賞中に叫んだ私。どういうわけか、農民たちの群像は、黒澤明の「七人の侍」に出てくる日本の農民にそっくり。意外なロマンスも絡まってなかなかはらはらどきどきの4時間(長い)であった。
歌とダンスの中で特によかったのは、Bhuvanに恋するヒロインが、2人の関係をヒンドゥ教の神様で女たらしのクリシュナとやきもちやきのラーダに例えた歌。「なんでやきもちなぞやく、ラーダ」、「やかずにおらりょうか、クリシュナ」という2人のダンスが歌舞伎みたいでかっこよかった。
細かい場面についていろいろ書きたいけれど、「死ぬ前に一度は見るべき世界の映画トップ30」にリストアップされている映画なので、これから観る人のためにやめておきます。ちなみに、クリケットのルールがさっぱりわからない、という人は観る前にちょっとだけ調べておくことをおすすめします。
すべてはゴルマールになる
15 Nov 2008 Leave a Comment
先週の日曜日、以前によく通っていた近所の小劇場に映画を観にいった。このごろ家の近くの新しいシネコンにばかり行くようになってしまったことにちょっと心が痛んでいたので、久しぶりに地元の商店街の売り上げに貢献しようと思ったのだ。
この劇場の問題点は、チケット売り場が決まった時間しか空いていないことである。チケット売り場の横のタバコ屋のお兄さんいわく、大体午前10時ごろと午後2時ごろに売り場が開くが、それ以外は閉まっているらしい。だから、通りかかったついでにチケットを買って置こうと思ってもできない。久しぶりに行ったのでその事をすっかり忘れていて、仕方なくチケット売り場の横のチャイ屋で1時間ほど本を読んで待った。
ムンバイの映画館では上映前に必ずインド国歌が流れて、観客はみんな起立してスクリーンの国旗に掲揚しなければならない。このルールは2003年に始まった比較的新しいものだという。ムンバイのタウン誌Time Outの「ムンバイから無くしたい100のことリスト」という特集の中では、「あれ、うざいからもうやめて欲しいよね」と批判的に取り上げていたけれど、そうはいっても曲が流れればちゃんとみんな起立する。
この日は、国歌の最後に2人ぐらいの観客がスクリーンに向かって「バラー、マッタッキ!」とヒンディ語で叫んだ。その発言をメモしておいて後日知人に確認してみたところ、正確には、
Bharat Mata Ki Jai (バラート・マッタ・キ・ジャイ)
( Bharat = India / Mata = mother / Ki = that / Jai = win )
だそうである。日本語にするなら、「母なるインドに栄光あれ」といったところだろうか。久しぶりにローカル劇場に入るとこういうことがある。ファンシーなシネコンの中で、人はあまり叫んだりしない。途中で画面がパタッと暗転してしばらく会話だけが続くというハプニングが起こって観客が一斉に「見えない!見えない!」と叫ぶという一幕もあり、なかなか面白かった。
最新のシネマコンプレックスのチケット代はRs. 150からRs.200前後であるのに対し、ローカル劇場ではRs.50からRs.100と安い。この値段の違いが客層の違いなのだ。しかし、映画への反応はどこに行っても同じみたいだ。
ちなみにこの日の映画は「Gormal returns(ゴルマール・リターンズ)」という、まじめな画面が1分もないばか映画であった。ゴルマールは主人公の名前なのだが、主題歌からして「Gormal, Gormal, everything is gonna be Gormal….」というまったく意味のない歌詞である。そうか、すべてはゴルマールになるのか・・・、とまったく訳がわからないまま劇場を出たが、気分は爽快であった。
アビシェイク・バッチャンはちょっと
06 Oct 2008 2 Comments
今週末に行った映画は「DRONA」。アビシェイク・バッチャン主演のファンタジー映画である。これが結構ひどかった。映画館を出たときどっと疲れていた。
ヒンディ語がわからないのにいいとかひどいとか判断できるのか、と聞かれたら、「ある程度はできる」とはっきり言える。せりふがわからないので効果を頼りにストーリーを追っていると、音楽、カメラの動き、シーンの切り替わり方なんかが下手なのがものすごく気になるのである。不自然な効果を延々3時間も観ていると完全にへとへとになってしまう。
簡単に映画のストーリーを説明すると、青年アビシェイクは実は不思議な力を持った伝説の勇者Dronaで、伝説上因縁のある悪の組織が彼の力を使ってなにか悪いことをたくらんでいるのを阻止してやっつける、というかなりどうでもいい内容である。
アビシェイクは寡黙な青年の役で、クールなつもりなのかまともなせりふがほとんど無い。突っ立って憎しみのこもったような目で虚空を睨んでいるかショッカーみたいな敵をやっつけているかどっちかで、きっと喋らせたらろくでもないから彼にはせりふをつけなかったんだろう、と思わせるほど演技が下手である。父親のアミタブ・バッチャンは顔がもうちょっと精密なので黙っていると寡黙に見えるけれども、息子の方は野生的な外見のせいか、見ているとだんだん「あれ、彼はひょっとして人間の言葉がわからないのかな?」という気持ちになってくる。
映画全体も意味ありげにしようとしてか、ほとんど3分に1回はスローモーションがかかる。スロモがかかってないときにもカメラが役者の下から上になめるようにゆー…っくりと動くせいで、全篇スローで観ているのと変わらない。
結論としては、アビシェイク・バッチャンはちょっと、もういい。ひょっとしてファンの人がいたらあれだけれど、私は父アミタブ・バッチャンとアビシェイクの妻アイシュワイヤ・ライは大好きなので、それで勘弁してほしい。

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