「ノルウェイの森」とボリウッド長編映画
17 Apr 2011 Leave a Comment
最近東京から近所に越してきた友達夫婦が誕生日プレゼントに村上春樹の「雑文集」と「ノルウェイの森 映画版」を含む各種おすすめビデオをくれた。私はかなりコアな村上春樹ファンの一人である。中日ドラゴンズ風にいうと、いわゆる「ハルキチ」である(中部地方では熱狂ドラゴンズファンを人はドラキチ=ドラゴンズキ○ガイと呼ぶ。)数冊の翻訳本以外はエッセイから短編、評論から対談にいたるまでほぼ全作品を逃さず読んでいると思う。
「雑文集」の冒頭の文章に、あるカルト教団に入っていた読者が、隔離された場所で読書を制限されたにもかかわらず「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を持ち込んでこっそり読んでいた結果、最後に教団の呪縛を抜けることができた、というエピソードがある。これは身にしみてよく分かる。私もカルトとは違うけれど、昔、凝縮されて偏った小集団の精神的暴力に巻き込まれてちょっと人間がだめになりかけたときがあったのだが、そのときに何年かぶりに読み返した村上春樹の小説に強くエンパワーされた経験がある。いつから読むのをやめてしまっていたんだろう、とそのときに思ったことをよく覚えている。人間性と柔軟性を引き出す不思議な力がある。いざというときに本物の実益があるのが、村上作品の特別なところである。
というわけで、「ノルウェイの森」は私の村上ベスト10には入っていないのだが、まあ初の映画化はちょっと気になるところであった。CGとか特殊効果とかを使わなくてもいける数少ない作品だから比較的簡単だろうし、まあ試しにやってみたらいいじゃないか、と完全に上から目線である。私の友達は「春樹は大ファンではないけど一応主要な作品はフォローしてる」という人が多く、日本で公開されたときには「まあオッケー」から「受け入れがたい」まで賛否両論の感想が送られてきた。
よく「小説を映画化すると、映画のイメージが小説の世界観をぶちこわしにする」と言う人がいるけれど、それはそもそも原作の小説自体がたいしたことないからだ。たかが映画一本配役一つで本来のイメージが壊れるような小説はほうっておけばいい。逆に、小説が優れている場合には、映画は単なるファンによる再生産の一つにすぎないんだから、温かい目で見て早く忘れたらいい。その理屈でいったら村上春樹の映画化がうまくいくはずないのは最初からわかっている。ミヒャエル・エンデの映画化がことごとく絶望的なのと同じである。
率直な感想としては、ファン丸出しで言わせてもらえば、映画版のノルウェイの森は「まあ決定的に間違っているとまではいわないけれど、これじゃない」という感じであった。私だったら突撃隊とレイコさんと永沢さんの描写に30分は使う。直子役は正直誰でもいいから、むしろ緑に菊池稟子ちゃんを使う。せめて突撃隊のラジオ体操と国旗掲揚のシーンは入れる(なぜ入っていないのか不思議だ)。もっとモノローグを入れて、渡辺君にはもっとはっきりしゃべらせる(ときどきなに言っているのか聞き取れないぐらいもごもごしゃべっている場面がある)。などいろいろテレビの前の監督気取りでいろいろ言いたいことはあるけれど、まあいい。とりあえず映画で初めて見て気に入った人たちにとにかくこれを機に本を買ってほしいと思う。
小説の映画化の根本的な問題は、時間である。大切な細部を削らざるを得ないとき、何を削るかというところに監督や脚本化の好みが出るのであって、その個人的な好みがそれぞれの個人的な好みを持つ大半の読者に納得できないのだ。小説を読むのと同じぐらいの長さの映画を作ることが可能なら、ひょっとしたらいろんな映画化はもっとうまくいくのかもしれないが、そんなことができるのはまあ忠臣蔵かボリウッドぐらいである。
遠藤淑子「グッピー」
05 Oct 2010 Leave a Comment
実家に帰っている。古い本棚の前に立つと、ある意味自分の精神の軌跡を見ているようで面白いような不気味なような、不思議な気持ちになる。私は線引き魔なので、昔影響を受けた本を次々に引っぱり出してぱらぱらめくると、赤い線がぐいぐい引いてあって、重要なパラグラフは線を引ききれないから四角で囲んであったり、かぎかっこでくくってあったりする。そこからびよーんと矢印を引いた先に、感動した箇所への感想やら、ある言葉につられて思いついたアイディアなんかが隙間にびっしり書き込んである。あとで重要ポイントがわかりやすいように要約した一文もあれば、「そうだったのか!」と感動のおたけびだけが書き込んである箇所もあったりする。
本棚をうめるだいたい40%は、院生時代に買った専門書で埋まっている。20%はビジネスや思考法、哲学や論文の書き方などの一般書、20%は小説、のこりの20%は漫画である。私は専門書から一般書、まんがに至るまで、自分にとって大切な本の大切な箇所を頁ごとにコピーにとってファイリングしたり要約したものをインドに持ってきているので(暇人というか地味というか…)、ほとんどの重要な本は、読み返さなくてもポイントをだいたい引用とか要約でしっかり記憶している。
インドでは漫画を読むチャンスがあんまりないので、時々実家に帰ってくると古い漫画をぱらぱらめくって懐かしい気持ちになる。私は漫画が好きでそれなりにたくさん読んできたと思うが、ありとあらゆる漫画のなかで一番こころから好きなのは、遠藤淑子の「グッピー」である。「グッピー」は『心の家路』という古い単行本に入っている短い作品なので、もし少女漫画が好きで興味があったらブックオフか何かでチェックしてみて下さい。復刻版コミックスでは出てないようです。
遠藤淑子は昔「花とゆめ」で描いていた少女漫画家で、短編に名作が多い作家である。ストーリーに色気が無くて絵のバランスがちょっと不思議なんだけれど、そんなことは全然どうでもいいくらい、出てくる登場人物たちが素朴で優しい。だからこの作者の作品を読むたびに、「あ、そういえば優しいってこういうことだったよ」と思い出す。「グッピー」という作品の登場人物はその真骨頂という形で、読んだ後ちょっとどうしたらいいかわからなくなるくらい優しくて正しい。ストーリーはうまく説明できないので省略します。そういうものをずっと一貫して描いている遠藤淑子さんは素敵だ。こういう漫画がどんどん売れてみんなが読んでくれたら、すばらしい世の中になるのに、と思う。
シネマと書店とレストラン
28 Jul 2010 Leave a Comment
日曜日に映画「インセプション」を観た。前の週から封切りになっていて、観た人が一様に「2回観たいぐらい面白かった」と言うのであわてて観に行ったら、すっごく面白かったです。2時間ずっとこぶしを握りしめて画面を凝視しながら、なんだこれはっ、なにが起こっとるんじゃー、だれか説明してくれい!とつぶやきながら観ていた。企業の大物(渡辺謙)が他人の夢を見ることのできる技術を使って、ライバル企業の未来を変えるようディカプリオに依頼する。ディカプリオはチームを組んで人の多重の夢に入り込み、インセプション、つまり人の潜在意識にアイディアの種を埋め込むプロジェクトを実行するが、彼自身の心のトラウマが夢に影響をおよぼし、その成功を阻もうとする・・・、という複雑怪奇なミステリー。後でDVDで観よ、と思っている人には映画館に行くことをお勧めします。
そういえば、「ソルト」もその週末に観た。アンジェリーナ・ジョリーのスパイ・アクション映画で、最後の最後まで、アンジェリーナ演じるソルトというCIA捜査官がいったい何者なのか、いいヤツなのか悪いやつなのか、誰のために戦っているのかが謎解けない。CIA捜査官とみせかけてロシアのスパイ、と見せかけて実は・・・、というなかなか複雑な構成のストーリー。いつもアンジェリーナ・ジョリーの映画を見ると、「アンジェリーナという女は、私とはまったくオポジット・アイディアだな」と思う。人をけり倒す時の足の上がり具合といい、腕の硬そうな筋肉といい、俊敏さといい、同じ人間とは思えない。映画の帰りに道を一人で歩きながら、その日の朝ヨガをしようとしてぐぐっと体を曲げたら腰が痛くなって5分でやめたことを切なく思い出した。生まれ変わったらアンジェリーナになってみたい。でもトレーニングとか面倒くさそうだから、この人生ではアンジェリーナにならなくていい。
ところで、レオナルド・ディカプリオといえば、最近読んでいるKhaled HosseiniのA Thousand Splendid Sunsの中に、2000年にアフガニスタンのカブールで映画「タイタニック」が闇で爆発的にヒットした、というエピソードが出てくる。小説はカブールで生きる二人の女性の人生と愛を描いた物語なのだが、この2000年にカブールで起きたタイタニック・インシデントが生き生きと書かれていて面白い。すでにタリバン政権に変わっていて、本もテレビも音楽もなにもかもが規制された時代に、市民は闇で海賊版を買って、保安に見つからないように注意しながら庭にこっそり埋めてあったテレビを掘り出して、カーテンを閉め切って映画を観たんだそうだ。町ではありとあらゆるタイタニックグッズを売り出し始めて、タイタニックカーペットから、タイタニック・ブルガ(ムスリムの女性が顔を隠すためにかぶる布)まで売っていたらしい。しかし、タイタニック・ブルガだけは、いったいどういうものなのか想像がつかない。
私はいつも同時進行で2、3冊の本を読んでいる。真剣に呼んでいるメインの本と、あとは軽く読める本を数冊手元においておいて、気分に合わせて平行して読む。メインの本はたいてい内容が濃くて重いので、その緊張を違う本で和らげるのである。今は悲惨なアフガニスタン小説を読む傍らで、同僚から借りた東野圭吾のミステリーと、辻仁成の恋愛小説をぱらぱらめくっている。ムンバイでは日本の本は手に入らないので、だいたい日本から誰かが持ってきたものをぐるぐる回し読みするのである。
東野圭吾はインドに来てから何冊か読んだ。私は基本的にはミステリー小説が苦手である。ミステリー小説は文章がへたくそな確率が高いので、気になってあんまり中身に集中できないのだ。多分、ミステリー小説の世界ではことばよりもアイディアがより重視されるためだろう、と推察する。読者も犯人が気になって、「なんで作家のくせにてにをはが間違ってんだよ」とか「こんなとこに句読点つけたら読みにくいだろうが」とか思っている余裕がないにちがいない。それに傾向的に文章が記号的なので、(「とも子はその事実に気付いた時、窓の外の闇を見つめたまま、いつまでも身動きが取れなかった」みたいなどっかで読んだことある文章が1ページに1回出てきたりする)、なんか説明書を読んでいるような気分になりがちである。でもその中ではまあ、東野圭吾の本は比較的「何だ、このヘンな日本語っ」と感じずに違和感なく読めるし、変化球が多いのでミステリーファンでなくても楽しめる。
辻仁成の短編集は今回初めて読んだけれど、余計な情報をあたまに入れただけ脳細胞が損したぜ、というほど面白くない。主人公が「俺はお前だけを愛していたのにっ」とか言うところで反射的に「さぶっ」とか「きもっ」とつぶやいて本をばしっと閉じてしまう。他の本はおもしろいのかもしれない。個人的な趣味というか性格の問題かもしれない。ファンに言わせれば、私の心が乾きすぎていてそう感じるのかもしれない・・・と思い直してまた本を開く、ということを何度か繰り返している。いやなら読まなきゃいいのに、とは思うのだが、娯楽の少ない暮らしのなかで日本語の本は貴重なので、それでも、1ページ1ページを大事に読んでいる。
とりとめのない話だ。
沢木耕太郎さんは「シネマと書店とスタジアム」のなかで、映画と本とスポーツさえあれば生きていける、と書いている。私はたぶん、「シネマと書店とレストラン」と言うだろう。どんなに人生が絶望に満ちていても、退屈だろうと、孤独であろうと、雨降りの日曜日に一人ぼっちで、人生に何の目的も意味も見いだせなくても、「そういえばまだ観てない映画があったな」と思う。ふらっと本屋に立ち寄ったら、まだ読んでない無限数の本を前にして、「一つの人生では足りない」、と考える。映画館の帰りに新しい本を買って、好きなカフェで料理をつつきながら日曜日の夕方を過ごしていると、すばらしい映画や本や、おいしい食べ物で埋めようとしている自分の中の空白こそが、多分自分の持っている最良のものに違いないという気がしてくる。
絶望に効く薬
27 May 2010 11 Comments
in 生活, 日本語の記事, 本 Tags: featured-Japanese
インドに来てからというもの、自分の中に若いころに多少あった抑うつ的な部分がどこかに行ってしまい、どちらかというと常に軽~い躁状態で毎日を過ごしている。これが年齢と経験を経た結果としての性格変化なのか、インドという環境への反応なのかはよくわからない。私としては、インドという環境への反応が慢性的な性格変化におよんだのだと考えたい。
落ち込んだりがっかりしたり、悲しくて泣いたりすることも、自己嫌悪で眠れないこともある。人の態度が頭にきて怒鳴り散らすこともある。しかし、そういう感情が自分そのものを痛めつけるようなことはもうあんまり起こらない。もうちょっと若いときはそういうことがときどきあった。でも今は、感情は内から外に出て行って、どこかに帰着することもあれば、そのままどこかに流れていってしまうこともある。それだけのことである。
人間、いちばん危険なのは“感じまいとすること”である。「かなしい」と感じることで自分が傷つくことを避けるために、感情を意識にのぼらせないようにして押さえつける。それがだんだん無意識に、気付かないうちに起きるようになる。その繰り返しのツケが感情と意識と行動の解離を生み、その3つの間の論理をめちゃくちゃにする。そういうふうにして、自分の感情と行動が意識の制御を超えてしまう現象が人には起きることがある。
私も何年間かきつい環境にいたときに、理由もなく夜寝る前に涙が出ては止まらなくなり、それが何ヶ月もの間毎日続いたことがあった。衝動的に危険な行動をして死にかけたり、攻撃的になったり、無気力になったり。やたらと眠かったり、逆に全く眠れなくなったり。暗い考えしか思い浮かばなかったり、本がまともに読めなくなったり、テレビや映画が観られなくなったり。そういうヤバイ状態が何ヶ月も続いて危険極まりなくなったときに、「あ、このままだと死ぬ」と気付いて総合病院の精神科に行き、「こんな状態ですけど、うつですよね」と聞いたら、「うつですねぇー。それもけっこうひどいやつですねえー」と言われたのだった。
病院からの帰りに本屋に寄って、何年かぶりに漫画コーナーをぶらぶらしていて、たまたま見つけたのが山田玲司の『絶望に効く薬』で、この漫画との出会いが第1のターニングポイントになった。人は見つけたいものに無意識に目を留めるものなのだ。実際、精神科から出る安定剤よりこっちのクスリのほうがぜんぜんよく効いた。それから何ヶ月か山田さんのいろんな漫画を読んだり、考えたことを文章に書いてまとめているうちに、だんだん頭が働くようになってきた。(ちなみに、山田玲司は『ゼブラーマン』の漫画版を描いているが、漫画は全く別物で、名作である。)
半年かかってやっとまともにものが考えられるようになり、仕事をやめてインドに移ってたまこに出会ってからの1年間が第2のターニングポイントで、それからどんどん楽になっていった。自然体で好きなように生きている周りの人たちに影響されたこともあるし、英語がコミュニケーションの中心言語になったことで、自分にも他人にもうまくウソがつけなくなったことも一つの理由かもしれない。
今は自分が怒っていると気付く瞬間もなく人に怒鳴っている。逆に、怒鳴ってから「あー腹立つなあ」と思う。今はそういうふうに、身体と感情がぴったり隙間なくくっついている充実感がある。自分自身という実体が、感情と、行動と、意識のどの部分にいるのか、という愚問はもうそこには存在しない。それはもう余地も隙間もなく、同一になっちゃっているからだ。
そんなかんじで、私の人生の前インド期は、アンタッチャブルなダークサイドである。生まれつき自然体の人もいる。そういう人は、なぜそんな遠回りをしなければそんな当たり前のことができなかったのかと不思議に感じるかもしれない。私自身も不思議に思う。けれどまあ、性格的に避けようのないことだったんだろう。どっちにしても、もしタイムマシン(ホットタブ・タイムマシンみたいな)があって過去の自分に戻れると言われたら、私は即座にくるっと背中を向けて猛ダッシュで走って逃げるつもりだ。
ストイックな男の人生 山崎豊子「沈まぬ太陽」
10 Sep 2009 Leave a Comment
in 日本語の記事, 本 Tags: 山崎豊子, 沈まぬ太陽
山崎豊子の「沈まぬ太陽」を読み始めてそろそろ3週間目になる。以前会社にいたインターンの青年が日本に帰るときに置いていったのを借りて読んでいるのだ。かなり面白い。
日本にいるときは、企業ドラマなんておっさんばっかり出てくるし登場人物は多いしポリティクスやらなんやらいちいち理解するのが面倒くさいからキライ、と思って読んだことがなかったのだが、「ドラマ 華麗なる一族」は面白かったし、読んでない日本語の本がもう残ってないという差し迫った理由もあり、読み始めたら止まらなくなって朝ごはんの時間まで本を広げている。全5巻だからなかなか読み応えがある。
ストーリーを簡単に解説すると、主人公の恩地は、官から民に移行しつつある巨大な航空会社「国民航空」の社員で、優秀さを買われて労組の委員長に任命される。正義感が強く実直な彼は、「空の安全」を守るために、社員の労働環境を改善しようと死力を尽くすが、その結果、会社はその存在を疎んじて「アカ」のレッテルを貼って迫害し、懲罰人事で海外の僻地をたらいまわしにする。飛行機事故を契機に、半官営の汚れきった大企業と、それを変えようと戦うストイックな組合員たちのドラマ、というような話です。
主人公の恩地さんは、スーパーストイック男である。そんなひどい仕打ちを受けて出世の見込みもないような会社さっさとやめたらいいのに、戦っている他の組合員たちのために耐えて耐えて耐え続ける。それでいて、その苦しみのなかでも心だけは澄んでいる。アフリカやらパキスタンやらにぼんぼん飛ばされて孤独な単身赴任の生活のなかでも、美女に情熱的に迫られても決して興味を示さない。まさに女の書く男、という感じの主人公である。
こんな男は世の中にはいないか、いたら頭のおかしい人である。表で極度に「倫理的」な人間は、裏ではかなり性格破綻しているというセオリーを私は信用している。なんだかごつごつして妙なこだわりがあったり、「あ、ヘン」と見てわかる人のほうが付き合ってみるとまともなものである。だが、これは小説だからいいのだ。恩地さんはストイックだけれど変態ではない男なのである。
世の中には、「本当は周りがおかしいのに、自分がおかしいと見られてしまってる」という悲惨な状況に立たされている人はたくさんいるはずである。「周り」が大多数で、力がある場合には、そちらが単純に正義になり、声を上げている個人は迫害される。そんなケースは大なり小なりごろごろしている。経験したものにしかその恐怖はわからない。一度もそんな経験をしたことがない、という人がいたら、それは自分が常に「周り」の側にいただけの話である。
そういう人数や力による迫害のまっただなかにいる人には、ストレートに、励みになる物語だろうと思う。秋の夜長にはおすすめです。
手紙だけの夫婦愛は成り立つか? ―The Japanese Wife
01 May 2009 Leave a Comment
“Japanese Wife” という短編小説集が、インドの本の全国チェーン店CROSSWORDの2008年ベストセラーに入っていたので買ってみた。表題の作品は、映画化されて今年度公開予定らしい。
雑誌の文通欄で知り合ったインド人の男と日本人の女が、一度も会わないまま文通だけで結婚し、手紙だけのやり取りで夫婦生活を送るという、あるいみでは特殊な愛の話だ。とても短い静かな小説である。ラストがなかなか印象的でよかった。
プラトニックな男女の愛が一生終わらず続く、という状態がどういうものなのかあんまり想像がつかないのだが、ひょっとしたら長く結婚生活を送った経験がある人にはわかる世界なのだろうか。それはいったい友情とどう違うのか。なぜわざわざ結婚という形をとってお互いを縛るひつようがあるのか。などと、お話とはわかっていながらいろいろ想像をめぐらしたりして、ついついまたワイドショーの視聴者状態である。
ちょっと飛躍するようだけれど、結論としては、なにをよしとするかは自分にしか分からないものだ。どういうスタイルで生きるかというようなことは、人の意見を聞いてもどうしようもないことであって、誰にどう思われようと思ったように勝手にやるしかない。小説の主人公たちも、「手紙で子どもはできないだろ」などと周りから突っ込まれるのだが、特に気にしない。すると周りもそれを見ていてだんだん、「あ、これもありなのか」と納得してしまうのである。
昔、古い友人が就職活動のときに就職先に迷って電話をかけてきた。職業相談の担当者に、「周りの人のほうがあなたを分かっている。だから古い友人10人に電話をかけて、どの仕事がむいているか意見を聞いてみなさい」と指導されたという。私は大学で職業指導を選考したので、そんなあほなアドバイスをしている担当者はどこのどいつだ、とびっくりしてしまった記憶がある。
この人と結婚して大丈夫だろうか、この仕事を選んで後悔しないだろうか、などと聞かれたって答えようがない。決断が「正しい」かどうかがポイントではないからだ。私たちは何もウルトラクイズをやっているのではない。
これで自分がハッピーになれるはずがない、とすっかり分かっていながらも選ばざるを得ない道もけっこうある。結局のところ、AからC、どのドアに飛び込んでも地獄である。粉まみれでも、水びたしでも、泥沼でも、どれにしても難儀なわけなら、まあ選んだ瞬間に楽しいものに行ったらいいんじゃないかと思う。あとのことは分からない。
一人称で語るということ NEVER LET ME GO by Kazuo Ishiguro
30 Mar 2009 4 Comments
この前、開高健の文体が好きだ、というポストの中で、小説のストーリーなんか実はどうでもいい、言葉が心地よければそれでいい、という話を書いたけれど、意見がちょっと変わったので反対のことを書きます。やっぱり物語はスゴイ。
週末かけて、カズオ・イシグロの “NEVER LET ME GO” (邦題:「私を離さないで」)を読んだ。何年か前に一度日本語の翻訳版を読んで衝撃を受けたので、ちょっとショックが和らいで細部を忘れたころにもう一度読み返そうと思っていたのだ。
読んだことのない人のために説明すると、小説は主人公キャシーの静かな一人称で語られる。男女共学のボーディングスクール、「ハールシャム」ですごした子ども時代、その学校の奇妙な雰囲気とルール、学校を出た後の「コテージ」での青春。親友であるルースとトミーとの微妙な関係。キャシーが一見誰にでも覚えのある子ども時代の記憶にまぜて語る数々の謎の後ろには、実は恐ろしい事実が見え隠れしている。「ハールシャム」とは何なのか、子供たちが成長してから始める「donation」とは・・・。ふっふっふ。というストーリーです。
一人称の語りでは、読者はキャシーの視点からしか世界を見ることができない。私たちが普段生きているときと同じ状態だ。人間は自分が認識できるものだけを頼りに、脳の中で世界を構成している。他人にどんな世界が見えているのかは決してわからない。だから、彼女の知らないことは読者にも分からない。キャシーが誤解していることは、誤解したままの事実として読者に知らされる。それにもかかわらず、キャシーの目を通してみる他の登場人物たちの行動や言葉を通して、彼女には見えていない世界が確かにそこにあるということを、読者はずっと感じつづけている。
それが、カズオ・イシグロの作品の、ふつうの一人称スタイルの小説とは違うところである。作者と主人公のアイデンティティは完全に分離している。作者は主人公の口を借りて自分の言葉を語っているのではない。作者の意図は主人公の思いとは別のところにある。その歪みから物語の別の真実を読者に垣間見せようとしているのである。私が読んだカズオ・イシグロのほかの作品、「日の名残り」と「浮世の画家」もまた似たような構造の一人称小説だったと思う。
この一人称の構造も含め、ストーリーは読者が真実に近づくための伏線であふれている。「なにかがある」という思いが本の最後のページまで読者をすごい勢いで連れて行く。どうやったら一人称であれだけ冷静に、主人公とのコミットメントを持たずに他人の心を描けるのか、本当に不思議だと思う。
怖い。どういうわけか英語の原作のほうがずっと怖かった。原作と翻訳を両方読んだほかの人はどう感じたのか聞いてみたいのだが、翻訳を読んだときにはこの背筋が冷えるような恐怖は感じなかった。昨日の夜中に読み終わって、頭に残っているイメージが気になってうまく眠れなかった。怖い夢を見てしまった。大学の倫理学の授業で教材として使うのもいいと思う。ひょっとして、もう使っている学校あるのかな?
皺から眠る 開高健の「夏の闇」
17 Mar 2009 Leave a Comment
開高健の「夏の闇」を読んでいる。久しぶりに、読み出したら字を追う目が止まらなくなる文体に出会った。
物語の内容は、本当はどうでもいい。細部を偏愛するたちなので、本を読むときにストーリーなんかほとんど真剣に追っていない。言葉づかいと、一文の中にあるぎゅっとするひねり、漢語と和語とカタカナのバランスと並び、そういうものを求めているだけである。読んでいて脳に波打つような心地よい文を見つけたら、ずっとぐるぐる同じものばかり読んでいて飽きない。
本の半分ぐらいまで来たが、「夏の闇」は精神的な剥離の恐怖におびえながら旅に拘泥し、怠惰な性と眠りに沈みこんだ中年男の話である。いつも眠たがっていることと、モツが大好きなことをのぞけば、主人公の男と読者である自分との間にほとんど共通点がなく、独白と自己分析を読んでもほとんど身に覚えがないし、その苦悩に共感できない。しかしそれが鋭くて面白い。そんな感じ方をするのか、と新しい他人の感性を学んでいるような感じである。
「私は足の裏や睾丸の皺から眠り始めるのである。そこから形を失い、体重を失っていくのである。」
さっぱりわからない。そういうもんなのか。それはよいとして、「皺から眠り始める」というこの「…から…」の使い方にぐっときてしまい、音楽で言ったら絶妙のところで半音下げられたみたいに頭に残る。ふつう体の部分「から」眠り始めるとは言わない。でもわかりそうな気がする、このもやっとしたところが好きである。
「旅はとどのつまり異国を触媒として、動機として静機として、自身の内部を旅することであるように思われるが、自身を目指すしかない旅はやがて、遅かれ早かれ、ひどい空虚に到達する。空虚の袋に毎日々々私は肉やパンや酒をつぎこんでいるにすぎないのではないか。」
私は旅人をやったことがないし自己の内部を旅する傾向もないので、この内省が身につまされてわかるわけではない。それはどうでもよくて、この「静機として」という聞いたこともない言葉をさくっと使っているところがなんかかっこいい。ここで「動機として」の一回だけでは音感的に物足りなくて「静機として」を思いついて入れたのだろうと思う。「静機」とは何を言うのかよくわからないのだが、こういう飾りが好ましい。一文一文の音と形にこだわっている。
ようはスタイルである。形が全てである。ソンタグはスタイルのない“内容そのもの”は存在しないと言っている。私はそういう深い芸術論は本当はよくわからないけれど、ひとつひとつの文章がかっこよければそれでいいし、そこに全てがあるんじゃないかと感じる。そういう意味では、論文と小説は同じように長文で成り立っているという点を除けば、ほとんど共通点はない。
痴人か愛か
09 Mar 2009 Leave a Comment
インドの結婚式については、もう少し書く内容があるのだが、ちょっと息が切れたので別の話題を。
以前、会社の同僚に、「タニザキの小説に『痴人の愛』ってのがあるが、君の名前の意味は『痴人』のほうか『愛』のほうか、どっちなんだ」と聞かれたことがある。『痴人』のわけないじゃないか。
『痴人の愛』の英訳のタイトルは確か『Naomi』だったと思うが、どこかで邦題の直訳の意味を知ったのだろう。先月日本に帰ったときに、日本の本をいくつか持って帰ろうと本屋を物色していてこの話を思い出し、読んでみることにした。谷崎を読むのは多分初めてである。
念のため簡単に紹介すると、大正時代、主人公の譲二という男が、カフェで見初めた奈緒美という15歳の美少女を家に引き取り世話をすることになる。西洋人のような容姿を持つ奈緒美は成長するにしたがって妖艶で性に奔放になり、主人公は誘惑と嫉妬と生活苦に病み・・・という話である。奈緒美も譲二も、昔は新しいタイプの人間として描かれていたのかもしれない。今読めば、意外によくいそうなカップルと言う感じがする。ややマゾヒスティックな男の純愛小説という感じかもしれない。
小説は譲二の語りですすむ。この自己心理描写が、男の理性と欲望のうごきをなんだか生々しく描いていて面白い。たとえば、譲二はしばしばわがままな奈緒美に強く出ようと決心するのだが、奈緒美が実際に目の前にいると、誘惑に負けてどうしてもうまく叱ることができない。だから、腹を立てていたはずの男が、次のページをめくると必死で女に謝っている。「おっ、早いなあ」と感心する。目に余る浮気振りに決別しようと心から決心するのに、また奈緒美のふくらはぎやら長じゅばんやらそういう細かな誘惑にあっさり負ける。ああ、と思って次の章にすすむと、「読者の皆さんは、もうお分かりでしょう」と始まって、ちゃんと女とよりを戻している。笑える。ほほえましい。
こういう女は雑に扱えば向こうから執着してくるだろうに、わからんやつだな、とつっこみを入れながら読む。男は、自分をだまそうとする女にだまされたふりをして、ふりをしている自分が実は女をだましているのだと悦に入ったりする。女に振り回されている男の描写はこっけいでおかしい。くるくる変わる譲二の信念のありようが、男のかかえた心と行動の矛盾そのものである。これは同じ矛盾に悩む男性が読んだら共感できて、自己反省してしまう人もいるんではあるまいかと推測する。しかし、女の立場からからすると「まーた男はありもしない心の矛盾とやらに悩んで、まったく愚かなんだから」と思ってあきれたりする。ことストレートな男女間の相違という観点からものを見るとき、女性というのは基本的に男性を見下げているものである。
本は、いかに自分にひきつけて、自分のために書かれたものとして読むかどうかがカギである。しかし、それをやると自分の場合、ついつい話が下世話になって、そこから学び取る内容は名作からもワイドショーからでもたいして変わらないのが問題である。

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