ぶれずに、ままに。

過去に自分のチームに学生インターンとして入り、一緒に働いた仲間と久々にキャッチアップする機会があった。これまでに仕事を通じていろんな人と出会ったが、いつまでも心に残っている素敵な人たちには、必ずあとになって再び出会う縁があるものだ。

10年前に学生だった人が、30歳を過ぎ、出会った時の自分と同じぐらいの年になっている。若い友人に人生の冒険談を聞くのは面白い。この世には歳をとって賢さを増す人と愚かになる人がいる、とソンタグは言っていたけれど、20歳と30歳の隔たりよりも、30歳と40歳の隔たりのほうが小さいと感じるのは、私が賢くなっていないからなのだろうか。この年齢レンジに共通するのは、我々にはまだ愚かさが必要で、でも少しは避けられなかった痛みから得た賢さを持ち合わせていて、有益な迷いの途中にあるということだ。自分という存在のある種の限定性と、その限定性という小さな穴から人生を覗き込んだ時に、穴の向こうに広がる世界の果てしなさを知っている。

独自の道を歩んでいる人は魅力的だ。自分よりも知的で感受性が高く、個性を極めている年下の人と話していると、人の面白みは年月の積み重ねでは生まれないのだ、と改めて思う。人は年上の人の経験談を聞きがちだ。でも、実際には、過去の経験や知識はさほど魅力的ではない。時間の重みは人によって異なる。いくつでも、何をしていてもいなくても、今この日に、誰に寄りかかることなく深く考えていること、感じていることが、その人を際立たせる。

五味太郎さんのことばに
「怠けるということ。
春→桜→花見、としか考えないようなこと。
TVで話題のラーメン屋に並ぶこと。
(…)折り合いをつけて結婚をすること、
などを言います。」
という名言がある。

自分が好きだと思う人は、いつもその人だけにしかもち得ない感性を語る。自分ではない人だからこそ、会う価値があり、憧れる。

人は30歳を過ぎたあたりで、人生に「型の美」ともいうべき人としての幸福と結論を追い求めていく人と、人生には幸福も結論もなくてよいが、魂の自由だけは死守すべしというスタンスで生きていく人に大まかに別れる気がする。その違いは外からはわからないが、出会って話し合う中でそっと醸し出されてくるものである。多くの場合、前者のタイプの人間と後者のタイプの人間は、尊敬し合うことはできても究極的には価値観が交わらないことも多い。どちらがいいというわけではないが、私は個人的には定まらずさまよい続ける人間が好きだと思う。

「えーと、これからなにしよう?」って、素敵な問いだ。インド帰りの仲間が多いせいか、自分の周りには自由に生きている人が多い。彼らとの会話には、「成功と失敗」という二択の概念が存在しない。つまり、失敗という言葉は誰の辞書にも載っていないのだ。人生自分の好きにしていいんだぜ、好きなだけ考えたいことを考え抜いていいんだぜ、昨日と全然違うことを今日始める権利があるんだぜ、と思うし、そう思わせてくれる人に恵まれていると思う。自分も、ぶれずに、ままに、生きていこうと思った。

Published by

Ai Kanoh

Working for marketing, branding, business.

Leave a comment