ダイビング日誌(1)彼岸と此岸を往来する意識

人生2回めのダイビングをした話を書きたい。

トライしたのはボートダイビングだ。船で沖まで行き、身体に鉛の重りをつけて船から下ろしたロープで10メートルほどの海底まで潜る。インストラクターが海底でマスクの水を抜く方法、水圧に適応するため耳抜きをする方法、ボンベで呼吸をする方法を簡単に説明してくれる。静かな声の彼が繰り返し言う。

「何があっても落ち着いてください。不安になって焦っても何もいいことはありませんから。」

その言葉の意味がわかるのは数分後だった。ボートから水面に降りると海底は暗く見えない。ボンベで呼吸をする練習をしてくださいと言われるが、うまく息ができない。今から海底に連れていきます、といわれた時、水面に顔をつけてすぐパニックが起きた。鼓動が速くなり、息を吸いすぎる。吐けない。海水を飲む。焦ってロープを離してしまう。

死ぬかもしれない。生存本能が働いて、あらゆる想像と計算が頭を駆け巡った。10メートル下でボンベが故障したら。むせてレギュレーターが外れたら。水を飲んだら。マスクに海水が一杯になったら。インストラクターは異常に気づくだろうか。何分以内に水面に上がれるのだろう。自力で上がれるのか、いや上がれる気がしない。死ぬかもしれないのにのんきに魚を眺めている場合なのだろうか。

「大丈夫ですか?いけそうですか?」という声にハシゴにしがみついたままぶんぶん首を振る。すると若いお坊さんのようなインストラクターは少し黙ったあと、「・・・ここまで来たんです。いきましょう。」と静かに確信を持って諭した。

それを聞いて、ああ、私は行くのか、怖くても行くのだ、そうか、と思った。すると不思議なことに数秒前まで駆け巡っていた恐怖が霧消して、海底におとなしくおりていく心静かで無我な自分だけが残った。私はこの場所を知らない。考えても意味がない。この人は知っている。だから教わった通りにするだけだ。

ただ、長く長く口で息を吐けばいい。

1メートル深く潜るごとに耳抜きをするんだ。

マスクは水圧があるから簡単に脱げたりしない。

身体が逆さになったら思い切って回転してしまえばいい。

レギュレーターが外れたらくわえ直して吐く。呼気が足りなければ噴出ボタンを押せ。

無事海底に辿り着いた。自力で泳げないと見たインストラクターに背中を引っ張られながら、魚の群れに近づき、海亀が海底に泳いでいくのを見送り、珊瑚礁とクマノミの親子を観察し、海底の岩場とより深い海につながる段々畑のような海底の地形を眺めた。海底は海面と違って静かで平和だ。風も波もない。不確定要素は意外と少ない、自分の心と身体を除いては。危ない場所じゃない、私が冷静に息をしている限りは。自分の心だけが、唯一のリスクであり、それは私にしか制御できないのだ。

40分程度の海底散歩を終え、浮上して船のロープにつかまるころには「あら、もう終わり?意外とはやいのね」という余裕を見せられるほどであった。恐ろしく静かな自分の心だけが残っている。長い長いゆっくりした呼吸を何十分もしていたせいで、一種の瞑想状態になっていたのだろう。

人間の豊かな想像力は本来、死を回避するためにあるのかもしれない。ダイビングというスポーツの8割はメンタルの強さに基づくという。私たちが感じる恐怖の大半は現実に起きていない。意識的に、または半意識的に、頭は常に一歩先の死の可能性をシミュレーションしている。しかし、海底ではその想像力が脳に余計な酸素を消費させる。想像の恐怖に溺れることで心拍数と無駄な動きを生み、死のリスクを上げる。無になり、眼前の現実と自分の状態に意識を集中したほうが安全なのだ。

死の恐怖から無我へ。パニックから静寂へ。ダイビングはその離れた極と極の中間を行き来する人間の心を試す。地上では遠いはずの2極は近接していて、境界線は膜のように薄い。ふとした弾みで湧き上がった不安が簡単に膜を破いて向こう側に自分を押しやる。「極」、いや「局」という比喩のほうがあっているかもしれない。人はTVのチャンネルを変えるように心の局を意識的に切り替えることができ、意識は身体機能をごく部分的にはコントロールできる。カチ、カチ、カチ、カチ。

人類で初めてフリーダイビングで100メートルを超えた伝説のダイバー、ジャック・マイヨールは、ヒトは水中での適応能力を高めることで「イルカ人間」に進化できると信じ、自分を実験台にした科学的研究と実践を積み重ねていたそうだ。自伝「イルカと、海に還る日」にはそのプロセスが翻訳者の愛ある解説と共に語られている。ヨガ、自然への回帰、スピリチュアリティを極めているかに見えたジャック・マイヨールは2001年に自殺し、ファンに真の安寧とは何ぞやという謎を残した。

マイヨールが追求していた最も危険なフリーダイビング競技「ノーリミッツ(NLT)」(フィンをつけずに重りを掴んで閉息で垂直に深海に潜ってバルーンで浮上し、その深度を競う競技)の現在の世界記録は214メートル。記録保持者のハーバート・ニッチは2012年に253メートルに達したが、浮上中に海面直前で減圧症で意識を失い記録と認められていない。

253メートル。9分以上の閉息潜水と深海の水圧。

ヒトは通常3分を超える窒息で脳にダメージを受ける。イルカですら5分から10分間隔で浮上して呼吸をする。

「人はイルカにはなれるか?」という問いへの答えは、「人によっては、限られた時間であれば」となるのかもしれない。新記録を打ち立てるほど生と死の境が近接する危険なスポーツ。世界記録を持つスキンダイバーでも、死や障害への恐怖と日々戦っているという。なぜ恐ろしくても潜るのか、リスクを抱えてでも超えたいか。人の心は不思議だ。そして面白い。

スキンダイビングの価値を提唱していたジャック・マイヨールは自著の中で「ウエットスーツを着てタンクを背負い、ゴーグル越しに海底の生き物を眺めることと、水族館で魚を見ることになんの違いがある?」と問うている。「地上のロジックを持ち込んだその発想は海を植民地化する行為と変わらない。郷にいれば郷に従えだ」。いや、どうだろう?たしかにシュノーケリングで浅瀬を潜ると、自分が魚ではない無力感を強く意識する。しかし大仰な機材を抱え、細いレギュレーターに命を賭けて潜ることもまた、強烈に無力な行為だ。ヒトは海中で、いずれにしても無力だし、それは変わらない。

面白いのはその2つの世界を往来する自分の意識のありようだ。海中は一種の彼岸であって、自分の世界ではないからこそある種の恐怖と畏敬の念を感じる。短い時間だけ、多くの条件付きで、自分がそこにあり得たかもしれない別の世界を少し覗かせてもらっているだけにすぎない。向こうに行くには、戻ってくるための多くの心構えが必要だ。入り口の波のリスクを超えて、海底で他人の穏やかな日常をかいま見て、また命を持って此岸へ戻る。まるで妖怪とヒトの世界を往来するように。その往来で身につけられる視点は、地上で日常を眺める時にもきっと役に立つに違いない。

家に帰ってきてすぐに、PADIのオープンウォーター・ダイバーライセンスのインストラクターを探して電話をかけ、ことの顛末を話した。「ダイビングがマジで恐ろしかったので、ライセンス取得に挑戦したいので情報が欲しい」と言うと、はははと笑われた。「それは良いですねぇ」。

「不安になって焦っても、何もいいことはありませんから」

お坊さんのような表情をした、茶髪の若い南の島のダイバーのことを時々思い出そうと思う。怖いのは当然である。自動思考と想像力は止められないが、現実とそれは異なり、対処すべきは現実のほうにある。とりあえず準備をして飛び込み、無力感を受け入れて、手が届く範囲まで底を探り、命だけ落とさず手ぶらで戻ってくればよい。これは、なかなか面白い比喩ではないかと思うのだ。

Published by

Ai Kanoh

Working for marketing, branding, business.

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